長野県の古代朝鮮半島からの渡来文化 −大室古墳のルーツをたどる−
はじめに <研究の狙い>
古代日本には中国・朝鮮半島から技術・文化が渡来している。漢字、鉄・銅、仏教、薬品、
麻や絹、さらに古くは稲作等現代日本人の生活基盤となる衣食住や精神生活まで全てに亘って
その影響を受けている。
しかし江戸時代の鎖国を経て明治維新後は当時の先進国である欧米から近代科学技術、文化、
政治制度を導入した。明治から昭和にかけて多くの日本人が熱心に欧米から学び、追いつき
追い越す勢いを持った。一方で古代に学んだ中国、朝鮮は近代化に遅れた。いわゆる“日帝
時代”の日本は大陸への進出を優位にするため、中国・朝鮮は下位国と見て支配下に置く
政策をとったが、長い歴史の中で渡来人も日本に溶け込み、日本人は渡来文化を発展・応用
させたにもかかわらず、そのルーツは特別に意識しなくなっている。
それは自然なこととしても、誰が何をしてきたかを明確にして歴史を正しく認識したい。
自分の故郷である長野県北東部には古墳が多く、積石塚の多い特色ある地域であることから、
この論文では特に積石塚が集中する長野市の大室古墳群を主要テーマに取り上げる。長野県
の古墳は大学の考古学者や地元の研究者が中心となって調査を行い、研究報告書があるが、
埋蔵品が失われた古墳が多く、葬られた人や作った人についてまだ未解明な部分も多く残さ
れている。
このような困難な状況の中で、以下のようにルーツを解明する研究を行った。第一章では
色々な文献を調べながら長野県およびその周辺や他の地域の古墳を実地調査し、第二章では
朝鮮半島の古墳について実地調査した結果について述べる。第三章では主な研究者の説につ
いて確証を得るために調べ、更に形態や出土品等をファクターとして比較検討を行った実証
内容について述べる。
第一章 国内の古墳
第一節 積石塚
日本人は一般的に「古墳」と聞くと仁徳天皇稜や箸墓古墳のような前方後円墳を思い浮か
べ、大阪・奈良に数多く存在することを知っているが実際はもっと形態が多様であり、また
日本各地に広く分布する。その中で本論文の主要テーマである積石塚(つみいしづか)につ
いてここで概説する。
盛土ではなく石を積み上げて墳丘を構築する古墳であり、日本全国に20万基ある古墳の
うち約1%が積石塚で、九州、四国、中部、東北地方に分布し、長野市の大室古墳は500
基余、甲府市の横根・桜井古墳は200基余が群集する。(別紙表1)またケルンと呼ばれ、
世界各地にも分布する。
積石塚の生成は朝鮮半島の墓制の渡来とする説と、石材の容易に入手できる立地環境から
生ずるとする説があり、長年研究者の論議があるが結論はまだ出ていない。更に大室は天井
を屋根型にした合掌形古墳が集中していることが特色として注目されており、この屋根型
古墳が百済の都だった韓国公州市にもあることで半島との関係がある、と指摘している文献
が多い。
長野市 大室古墳群 甲府市 横根古墳群
第二節 長野県
(1)長野県の古墳の概要
長野県は日本の中央部で西日本と東日本との境目であり、日本海側と太平洋側の境目でも
ある。(その両海岸の塩が運ばれてなくなる場所が塩尻という地名になった)言語、食文化、
婚姻形態など西と東の分化の交錯する地域である。フォッサマグナが通っており、険しい山岳
地帯でもある。それでフォッサマグナで東西に、あるいは中央高地で南北に分かれても良い
ところだが、古来より1つの国としてまとまっており、信州人が集まると必ず歌う「信濃の国」
という県歌がある。この歌に出てくる「松本、伊那、佐久、善光寺、四つの平は肥沃の地」と
いう歌詞の通り、各盆地には古代から人が住み古墳がある。長野県には森将軍塚のように大形
の前方後円墳から大室古墳群のように小形な積石塚まで多種の古墳がある。後述するように
北から直接半島の影響を受けたり、南から大和朝廷の影響を受けたりしたものと考える。
長野市周辺の長野盆地(善光寺平)と飯田市周辺の伊那盆地南部に多く分布し、松本市周
辺にも古墳があるが、各盆地それぞれの特徴がある。新幹線や高速道路ができて近年発展の
めざましい佐久平にも古墳はあり、また藤森栄一氏の研究による諏訪の古墳群があるが、古
墳の多い以下3つの地域について概要を述べる。(別紙 表2、図3)
@長野盆地 (別紙 図1、2)
千曲川沿いの長野市周辺は県内でも古墳が多く、川柳将軍塚古墳(長さ91m)、千曲市
の森将軍塚古墳(長さ100m)という県下最大規模の前方後円墳が千曲川をはさんで盆地を
一望する山頂に相対峙する。このような大型前方後円墳はヤマト王権に認められなければ
できない墓制であるが、森将軍塚古墳からは中国製とされる三角縁神獣鏡片、翡翠勾玉、
畿内式系統の土器が出土し、竪穴式石室は長さ7.5m、幅2mと床面積日本一の大きさで、
周囲は赤彩されていた。周囲に軸線が古墳の裾線に並行になった60以上の埋葬施設があり、
副葬品から4世紀後半から5世紀後半にかけて作られたと考えられている。この付近では
いくつかの将軍塚が一定時間差をもって作られた。
5世紀に入ると須坂市に積石塚の鎧塚古墳が築かれた。副葬品は石釧の他、鉄鏃が顕著で
ある。5世紀半ばになると中野市に割竹形木棺を安置するU字形の粘土床を持つ古墳が
現れた。また長野市の大室古墳群を筆頭に積石塚、特に渡来系といわれる合掌形古墳も多く、
日本でも例の少ない特異な地域である。
A伊那盆地
飯田市周辺には天竜川河岸段丘の西側に沿って東海経由の中央政権の影響ある古墳が
点在する。長野盆地に前方後円墳が作られなくなった5世紀代に伊那盆地南部に前方後
円墳が作られるようになった。これは伊那盆地の支配層が後に東国支配を強めるヤマト
王権との結びつきを強めたものと考えられているが、渡来人が飼い方を教えたと思われ
る馬の埋葬も多く見られ、主な古墳を調査した。飯田市美術博物館の岡田正彦氏は「南
信州の渡来文化−古墳時代を中心として」(注1)の中でこう述べている。
ここは朝鮮半島南部の伽耶の影響を受けている出土品が多く、西山克己氏は「シナノ
の古墳時代中期」で「北の善光寺平では4世紀後半から5世紀代にかけて高句麗的な
文化の影響が見られ、南の下伊那地域では横穴式石室の構造や殉葬馬のあり方などか
ら、5世紀後半代には伽耶地域的な文化の影響が見られる」と述べた。
渡来系が北から南信州に移動した、とする説もあるが、長野盆地では6世紀以降も積
石塚は作られ続けたのに対し、伊那盆地には積石塚はない。また古代文献に伊那盆地で
の渡来人関連の記事が無いため、渡来系の集団が直接来ていると言い切るのは難しい、
とする説もある。
B松本盆地
松本市周辺には4世紀中頃築造の県内最大の前方後方墳である弘法山古墳があり、東海
西部系の土器、銅鏃、鉄鏃、鉄剣(40cm)、鉄斧(遺体の頭部付近に安置)が出土して
いるが、松本盆地ではこれに続くような大形古墳は見出せない。また薄川沿いには後述
するように積石塚と渡来系の神社がある。
(2)大室古墳
本論文の主要な対象となる長野市松代大室の積石塚古墳群について「信濃大室積石塚古墳群
の研究T」(注2)において、大塚初重教授は次のように指摘している。
『延喜式』 による甲斐・武蔵・信濃・上野の四ヶ国に設けられた御牧 32 牧のうち、
信濃には 16 牧が置かれ、その中に大室牧の名が見えている。広大な沖積地を抱えた地
域の丘には古い段階から将軍塚と呼ばれるような大型の前方後円墳が築かれ、狭小な沖
積地しか持たない地域には後期後半以降小規模な古墳が群集する傾向が見られる。この
ことから生産基盤である沖積地をほとんどもたなかった大室古墳群は、逆に水稲農耕に
生産基盤を置いたのではなく馬匹生産にその生活を負った可能性を指摘することができ
るのではないか。第 186 号墳の横穴式石室前庭部からは、馬頭骨が発見され、意識的
に埋納されたことが明白であった。
合掌形式の石室が突発的に 5 世紀後半にこの地域に出現し始めることの歴史的な
契機については、あらためて検討を要する問題である。盛土墳墓制に積石塚が加わり、
5 世紀後半代の合掌形石室の登場は、東国における朝鮮半島渡来の集団の移住や、技術
の受容を考えなければならないことになる。
大室古墳群は3つの支脈尾根と、それに挟まれた2つの谷に麓から山頂に向かって分布し、
長野市教育委員会の「大室古墳群分布調査報告書」(注3)によれば、データが採取できた
のは454基で、積石塚61%、土石混合塚26%、心土表石塚3%、積土塚2%となっている。
唯一の前方後円墳(全長56m)である開始期の18号古墳の他、大形の244号墳もあるが、
大半は次のグラフのように5〜15m程度の小形の積石塚であり、古墳形態や出土品から
渡来人との関わりが強いと考えられる。
(出典:大室古墳群分布調査報告書)
第三節 長野県周辺
長野県周辺の静岡、山梨、群馬県更に海の無い長野県への渡来人の足跡を辿るため北陸、
能登の古墳や博物館等で関連する遺物を見た。(別紙表2)
渡来文化、積石塚という観点で見て回ったので見方が偏っている恐れもあるが、大きく
分けて中部や北陸・能登の古墳は周囲に溝を持つ天皇稜のような古墳が少ない。そして平地
より山の斜面か峰の頂にあって、埋葬者の管理地である農地や、盆地・湾の反対側にある山を
見渡せる高台に作られたものが多い。それに対して太平洋側の静岡県浜松・島田市辺りでは
平地に天皇稜のような雰囲気を持つ古墳が多く、ヤマト王権の影響が強いと考える。
これらの中で甲府市横根・桜井古墳群は大室古墳群同様に小型な積石塚の群集墳である。
第三章で詳述するが、甲府市教育委員会の「横根・桜井積石塚古墳群調査報告書」(注4)
によれば
甲斐の積石塚は群集傾向にあり、密集度が高いといえる。墳丘についても比較的
小規模なものが多く、主体部は竪穴系の石室が多い傾向にある。墳丘の規模も総じて
小型であり、直径 10m を越えるものはそれほど多数ではない。同様な時期の盛土群集
墳に比べ小規模な墳丘といえる。主体部も小型であり、4mを越えるものは極端に少な
く、3m前後のものが多数を占める。
実際に現地調査すると、第一節に載せた写真のように、人頭大の川原石を中心に積んだ
小形の積石塚が梅林の中に群集しており、大室古墳群の積石塚と良く似ている。
第二章 朝鮮半島の古墳
積石塚のルーツであるといわれる朝鮮半島の古墳を比較研究するため、3回にわたり渡航
して調査した。
第一節
韓国 (別紙 図4、表4)
(1)ソウル(百済)
ソウル江南に百済時代の積石塚である石村洞古墳がある。3号墳は50m角3段の基壇が
あり、大きさだけでなく、石の加工、積み方に技術を要し、大変立派な積石塚である。中国
製の黄褐色釉瓶が出土したことで築造年代は5世紀前半であり、8個の棺をそなえた大形土
壙墓の他多数の土壙墓も調査され、一帯に6基の古墳が保存される史跡公園になっている。
また近くには百済の支配階級の古墳墓である土饅頭形円墳群の芳荑洞古墳、可楽洞古墳も
あることで、この地域が百済の都城であったと考えられる。
石村洞古墳
(2)公州(熊津)、扶余(泗)
公州は高句麗に攻められてソウル(漢城)から475年に遷都した百済の都で、盗掘をまぬが
れた数多くの副葬品や被葬者を示す誌石が残っていた武寧王陵がある。内部は石ではなく、
煉瓦を積み重ねて天井はアーチ形をしており、中国の影響が強い。副葬品は黄金装飾のベルト、
太刀、黄金の簪、日本の五重塔の水煙と似た頭飾り、棺の中には黄金装飾の頭台・足台などが
あった。(古墳内部には入れず、博物館でレプリカを見る)
公州 武寧王陵 扶余 華岩里古墳
扶余は更に南下する高句麗から逃れて538年に遷都した百済の都で、552年に日本に仏教
を伝授した他に大工・瓦師・鋳仏師・仏画師・五経博士などを日本に送り出し、660年唐と
新羅の連合軍に滅ぼされた。このとき、多くの百済人が日本に渡来した。陵山里古墳群は扶余
百済で最初から最後の王の墓がある。壁画が描かれている1号墳から1971年に発見された7号
墳まであり、中でも扶余百済時代の特徴である天井が六角形の石室の華岩里古墳があるが、
この天井様式が後述する合掌形古墳に関する形態変遷の1つの重要ポイントになる。
(3)蔚山 大袋里 古墳
蔚山は第三章で後述するように森浩一教授によれば、「木島平村の根塚古墳から蕨手状に
曲がった鉄剣が出土した。曲がった鉄剣は蔚山ハデ遺跡からも出土している。」とあったので
訪れ、地元役場の人の案内で調査した。外観は普通の円墳であり、その説明にはこうある。
・約3世紀から7世紀頃に築造されたと推定される。
・三国時代の土壙木槨墓、竪穴式石槨墓、甕棺墓などが確認された。
・土器、鉄製の刀、槍等武器類、玉製の装身具、青銅製釜が出土
出土品は後日ソウルの中央博物館で実見し(第三章で後述)、さらに積石塚の銀峴里
(ウンヒョンリ)古墳も見た。
銀峴里 積石塚(蔚州郡 熊村面検丹里)
説明にはこうある。
人頭大の自然石を積み上げた三國時代の塚である。現在は崩壞して當時の確かな姿
は分からないが、殘っている塚の高さは6〜7m、四角形の底の最大直徑は20mで
ある。
韓国の積石塚はソウルの石村洞以外にはこの1基を見ただけで、非常に少ない。高句麗も
この辺りまで南征しているが、積石塚を多く残すことは無かったのだろうか。日本の積石塚
が高句麗から来たものとすれば、韓国南部を経由せずに直接日本に渡った可能性が高いと考
える。
(4)伽耶の古墳
高霊 池山洞古墳群 陜川 玉田洞古墳群
伽耶は九州との距離が近いことや鉄が採れる事、百済と新羅に挟まれて周囲の勢力争いの
関係から古来日本との関係が深い。中国の「三国志」に弁辰半路国(高霊の大伽耶)に関す
る項で、倭もその鉄を求めている以下の記述がある。
魏书三十 乌丸鲜卑东夷传第三十
土地肥美,宜种五谷及稻,晓蚕桑,作缣布,乘驾牛马。嫁娶礼俗,男女有别。国出铁,
韩、濊、倭皆从取之。诸巿买皆用铁,如中国用钱,又以供给二郡。
訳:国は鉄を出し、韓、濊、倭皆来たりて取る。
伽耶の古墳は一般的韓国の古墳イメージである土饅頭型の円墳が大半であり、出土品は金
冠、金細工、玉細工の精巧さ、美しさとともに、鉄製品の多様さと立派さがある。刀、甲冑、
農工機具、それに馬を守る大きな冑、飾りまであり、これらと似た鉄製品や副葬品は日本の
古墳でもよく出土することで、伽耶との関係は深い。
(5)韓国西南部 栄山江流域
半島の西南部には日本の前方後円墳形の古墳も散在し、日本人(倭人)の足跡を感じる。
韓国の学者の中には「日本の前方後円墳は韓国から伝わった」との主張も多いが、大阪大学
に留学して日本の古墳を詳細に研究した慶北大学の朴天秀教授は「伽耶と倭」(注5)の中
で「武力応援の要請で倭人が来た。当時は半島と列島とで人が行き来していた。その認識が
重要である。」と指摘している。ただ古墳の説明にはそうした議論を避けてか、全て「韓日
文化研究の重要な遺跡である」という表現になっていた。
訳:前亜後円(長鼓形)古墳は日本では非常に広く作られているが、我国では栄山江
流域を中心とする10余基程度が確認された。韓日両国の古代歴史を明かすことの
できる重要な資料と評価される。(咸平 竹岩里長鼓山古墳)(注6)
訳:三国時代古墳は日本の古墳との比較研究するのに大変重要な遺跡だ。
(咸平 礼徳里新徳古墳)
なおこれらの前方後円墳は韓国における渡来文化であり、日本への渡来文化をテーマとす
る本稿では詳細を省略する。また慶州には世界遺産である新羅の古墳群があり出土した金細
工品も大変立派で、日本人の見学者も多いが、ここは主に北九州や山陰地方の古墳への影響
が大きく、長野盆地の古墳、特に積石塚への影響はあまり見られないことで説明を省略する。
第二節 中国(高句麗) (別紙表4)
中国東北部−北朝鮮との国境付近にある集安市に行き、世界遺産になった高句麗時代の積
石塚古墳や広開土王碑(高句麗の起源及び政権の建立など好太王の功績や倭国に関する記述
で有名)を実見した。更に天孫降臨のルーツ、朝鮮族発祥の地と言われる白頭山にも登り、
大勢の朝鮮民族の人々が登る様子から白頭山にかける思いを直接感じ取ることが出来た。
将軍塚は台座は一辺31mの正方形、高さは12mに形を整えられた花崗岩が7段に積まれて
いる荘厳な積石塚で、以前は高句麗初代王朱蒙の墓とされていたが5世紀初のものと分かり
好太王かその息子の長寿王の陵墓とする説が有力になっている。近くには太王陵と呼ばれる
一辺66mの正方形で高さが15mの大きな積石塚もある。この他に行ってないが、高句麗
王陵中最大の千秋墓他もある。
千秋墓:高句麗16代故国原王の王陵。辺長85m×80m方形積石墳
西大墓:高句麗15代美川王の王陵。辺長57m、高さ10m方形積石墓
集安市 将軍塚 広開土王碑
王城の外には7000余りの高句麗時代の墓が点在しており、多くの墓室内には当時の風俗
を伝える壁画が描かれている。その1部を実際に見ることで、当時の文化を実感できたが、
壁画古墳は高句麗では100基ほどが見つかっているのに対し、百済や新羅、伽耶では数基
しか見つかっていない。日本でも人物・風俗画や四神図が描かれた壁画古墳は高松塚古墳
およびキトラ古墳の2基しか発見されておらず、壁画については高句麗との関係を示すことが
難しい。
第三章 相関関係の研究
第一節 研究者の説
積石塚のルーツが渡来人であることを突き止めようと、色々な文献を調査していくうちに、
森浩一教授によれば、渡来文化と関わる古墳、特に積石塚の研究には以下の難しさがあること
が分かった。
・大陸諸地域と日本列島諸地域と直接関係したことを記す史料が少ない。
・8〜9世紀には、古墳をつくる風習がなくなっているために、考古学的には渡来人
居住の痕跡をたどりにくい。
また松代出身で、逓信省で交通史の本や挿絵を描いた樋畑雪湖の「考古学雑誌第16巻第
11号(大正15年)大室古墳についての一考察」(注7)には次のような記事が見える。
・大室牧があった。牧内、牧島という地名が残っている。
・アイヌ式土器の破片も多少あると同時に純朝鮮伝来と認むる鼠色にして文様のある
陶の器が混入している。直刀馬具の破片等も多少はあるが珍とすべきものはない
らしい。玉類には出雲石が多くあるが、朝鮮将来と認むべき翡翠玉の勾玉が往々
発見されている。
・明治年間に雨宮村なる塚堀の名人六左衛門とかいふ人がいてめぼしい物勾玉管玉の
類を発掘して売った、ということをよく聞かされている。
最後の「塚堀六兵衛は一生かけて埋蔵品を酒代にした」話は長野の古墳全てに言い伝えが
あるようで、大室古墳群調査報告書にも書かれている。それでも僅かに残された残留埋蔵品
から研究者は編年してきた。それによると年表としては別紙表3となる。
以上のように研究者も学説として明確な論文はなく、報告書のまとめや講演会等で意見
を述べたり、書物として書いたりしたものがあり、『「シナノ」の王墓の考古学』(注8)の
中に載る、森浩一教授の「古代日本海文化と信濃」を引用すると、
高句麗初代の王家の子孫がまとまって来た。高井郡に住み着いて馬の飼育をし、多く
の積石塚を作った
@『三国志』によれば、桂婁部は高句麗で格の高い、王を出す家柄である。のちに
須々岐と名前を変えた「卦婁真老」が重要で、須々岐水神社は、一つは千曲市で
馬を一頭埋めてあった五輪堂遺跡の近く、もう一つは松本市の薄川のほとり針塚
(積石塚)の近くにある。
A『新撰姓氏録』で高句麗の始祖の子孫であると称する人たちが「高井」と名乗って
いる。
B『日本後紀』延暦十八年十一月に信濃の渡来系の人たちの改姓記事がある。
C信濃で最も古い積石塚と思われる須坂の鎧塚は大きく、しかも二つの古墳が真ん中で
くっついており、王の古墳にふさわしい。すぐ近くに川が流れ、立地条件は雲坪里と
似ている。出土した金銅製品は百済の公州にある宋山里古墳出土のものとよく似ては
いるが、高句麗(北朝鮮)の安岳3号墳の墓室内に描かれている獅子の顔とそっくり
である。
D木島平村の根塚古墳から蕨手状に曲がった鉄剣が出土した。曲がった鉄剣は蔚山
ハデ遺跡からも出土している。
この森教授の講演内容は本研究の良い指針になり、それに従って実地調査し、また以下の
ように文献で確認される。
@『三国志 魏書三十』『新唐書巻二百三十六』
三国志 魏书三十 乌丸鲜卑东夷传第三十
高句丽在辽东之东千里,南与朝鲜、濊貊,东与沃沮,北与夫馀接。(略)东夷旧
语以为夫馀别种,言语诸事,多与夫馀同,其性气衣服有异。本有五族,有涓奴部、
绝奴部、顺奴部、灌奴部、桂娄部。本涓奴部为王,稍微弱,今桂娄部代之。
訳:高句麗は(略)言語や諸事が多く夫余と同じ、その気性や服は異なる。五族あり、
涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂楼部。この涓奴部は王で、微弱であり、今
桂楼部が代である。
(参考)さらにこの後に有名な邪馬台国の記述がある。
韩在带方之南,东西以海为限,南与倭接,方可四千里。(略)倭人在带方东南大
海之中,依山岛为国邑。旧百馀国,汉时有朝见者,今使译所通三十国。
以下は多少の差異はあるが、転記したものであろう。
『後漢書巻八十五』『旧唐書巻二百十一』『梁書巻第五十四』『魏書巻八十八』。
凡有五族,有消奴部、绝奴部、顺奴部、灌奴部、桂娄部。本消奴部为王,稍微弱,
后桂娄部代之。
A『新撰姓氏録』の第三帙/諸蕃・未定雑姓には
・本貫:右京 種別:諸蕃 細分:高麗 氏族名:長背連 始祖:出自高麗国主
鄒牟[一名朱蒙。]也 記事:天国排開広庭天皇[謚欽明。]御世。率衆投化。□美体大。
其背巾長。仍賜名長背王
・本貫:山城国 種別:諸蕃 細分:高麗 氏族名:高井造 始祖:出自高麗国主
鄒牟王廿世孫汝安祁王也
とあり、朝鮮半島最古の歴史書『三國史記』の卷第十三高句麗本紀第一には以下があるので、
高井姓は高句麗の王を出自とする氏族である。
・始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙【一云鄒牟 一云衆解】
ただし山城国から信濃までの高井姓の経路はまだ不明である。
B『日本後紀』の卷第八延暦十八年十一月ではなく、十二月癸酉に以下の記述がある。
分かりやすく順序を入れ替えて書き直してみると次となる。
信濃国人外從六位下 卦婁眞老〜上部色布知等言。己等先高麗人也。小治田。
飛鳥二朝庭時節。歸化來朝。自爾以還。累世平民。未改本号。伏望依去天平勝寳
九歳四月四日勅。
訳:信濃国人の卦婁眞老は先の高麗人で、飛鳥二朝廷時に日本に帰化し代を
重ねて平民、未だ姓を変えず伏して勅を願う
改大姓者 從六位下 卦婁眞老。→須須岐
後部黒足。→豊岡 前部黒麻呂。→村上 前部佐根人。下部奈弖麻呂。
前部秋足。→篠井 小縣郡人无位(位が無い:筆者注)
上部豊人。→玉川 下部文代。→清岡 高麗家繼。→御井
高麗繼楯。 前部貞麻呂。→朝治 上部色布知→玉井
C須坂市の鎧塚は他の積石塚が底辺10m以下の規模が大半であるのに対して25mもあり
確かに大きく立派ではあるが、朝鮮半島の王の積石塚は30〜80mの規模がある上に石の
積み重ね方も規則正しく積み上げた形態が多いことと比べると、鎧塚が渡来人の王の古墳に
ふさわしいのか良く分からなかった。地方豪族レベルではないかと考える。
出土品については宋山里古墳の公州博物館に良く似た帯金具があり、渡来品の印象を強く
持った。また鎧塚から東シナ海原産のゴホウラ貝釧も出土しており、海外との交流があった
ことを示している。
須坂市鎧塚2号墳の比較説明 公州博物館
北朝鮮には安岳3号墳の他多くの高句麗の古墳があり、是非調査に行きたいが、
現在の国際情勢から渡航困難であるのが残念である。
D 木島平の根塚古墳からは、長さ74cmの鉄剣が出土した。現地にはレプリカが展示して
あるが、木島平村教育委員会発行の「根塚遺跡」(注9)、金海市東儀大学校博物館発行
の「良洞里古墳調査報告書」(注10)から写真を載せる。柄の先の巻き草の飾りに特徴
があり、発掘された大塚初重教授は伽耶の剣と考え、九州大学の西谷正教授は伽耶の剣
であることを確認された。弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓からの出土であり、
半島から日本海を直接渡って来た、とのことである。
ソウルの中央博物館や昌原市には以下があり、蕨手の飾りは金海市だけでなくもっと広く
分布し、韓国南部からの渡来文化であると考える。
大邱 →蔚山 →慶州 →蔚山 中央博物館 昌原市茶戸里遺跡
ピョンリ洞 ハデ里 サラ里 ハデ里
以上のように研究開始当初考えた長野盆地と朝鮮半島の深い関係を示す実例を調査し、列挙
した。
第二節 古墳の形態、出土品による相関
(1)中国・韓国との積石塚比較
文献や古墳の調査過程から大室古墳のル−ツと言われている中国集安市の現地調査を行った。
まず丸都山城に着いたとき風景・地形、背後の山の形、前にある川、平野が松代大室とそっく
りなので驚いた。その時はやはりここの民族が大室の地を選び古墳群を築いたのだ、と思った。
(注21)
しかし現地の古墳を調査していくうちに、世界遺産の将軍塚は別格としても、河原に並ぶ
王族・貴族の古墳も皆大きく作りも形も立派で、大室や横根の河原石を単に積み上げただけの
ような積石塚とは全く違う感じを持った。渡来人のルーツであることを確認しようと集安市に
来たが、現地で見た結果は逆に大室の積石塚は高句麗の渡来人が最初に作ったとしても、後は
それに倣って似たように次々と作ったもの、と考えるようになった。
集安市 王族・貴族の古墳群
むしろ実際に調査した古墳の中では、須坂市の米持天神1号墳と松本市の針塚がソウルの
石村洞や集安の古墳のような基壇を有しており、渡来との関係を強く感じる。
須坂市の米持天神1号墳は3段の基壇を有し、周辺には鎧塚や多くの積石塚が分布し、規模
は小さいが大室の古墳より渡来系の影響を強く持つと考える。
米持天神1号墳
30mx35mの四角形、周囲に
50m角の溝がある。
家の形や椅子の埴輪の破片が出土
松本市の針塚は直径20mの円墳で段を有し、単に積み上げて出来なりになったのではなく、
あらかじめ大きさと形を考えて作られたものである。最初に設計したか、しないかでは結果は
積石塚でも、被葬者の権威や威厳、埋葬者の技術や墓制観に大きな違いがあると考える。
かつては周辺にも多くの積石塚があったが農地整理で大半が取り壊されてしまった。近くに
は既出の新撰姓氏録渡来人改姓の項に出てくる須須岐にちなむ薄川や須々岐水神社があり、海
洋民族の名残といわれるお船祭りが現存することで、渡来との関係が深い。(既出の森浩一教授
の指摘のように、大室古墳から10kmほど離れた千曲市にも須々岐水神社がある)
松本市針塚 筑北村安坂積石塚
また筑北村の安坂積石塚は基壇は有しないが、その形態や副葬品から帰化人の築造といわれ、
これらの古墳は渡来人に関係が深いと考える。
(2)長野県周辺の積石塚の比較
関連するものばかりでなく、ぶつかり合う物も見るために、長野県周辺の古墳も比較調査
した。長野県は森将軍塚等いくつかの前方後円墳を除くと小型な円墳が多いのに対し、静岡
県の浜松市、磐田市には平坦地に作られ周溝も持つ規模の大きい前方後円墳または前方後方
墳が多く、古墳本体の大きさだけでなく、その存在が周囲に威厳を与えるような雰囲気を持
つことで、中央政権と関係する地方豪族の古墳と考える。
また積石塚の二本ケ谷古墳を見た。川原石を積み上げた一辺が3〜9mの方墳である。5
世紀後半の竪穴で、推定では上部の墳丘は1m位の高さとのことであるが、地面と同じ高さ
に復元された現在の形状は伽耶の古墳の築造途中に似ており、韓国南部の古墳博物館には良
く似たものが展示してある。静岡県の唯一の積石塚であるが、渡来系と考える。
次に長野県および周辺の主な積石塚を比較し、以下の表にまとめる。
積石塚の比較表
長野市、須坂市、松本市
名称 |
規模 |
形態 |
時期、副葬品他 |
大室 |
5〜15mが大半 |
円墳 合掌形25基 |
5〜8世紀 500基 ガラス玉、鉄鏃、馬具、土器、人骨 |
桑根井空塚 |
径17m |
円墳合掌形 横穴式石室 |
7世紀後半 勾玉、管玉、須恵器坏 |
八丁鎧塚 |
25m |
張出付円墳 |
5世紀代 貝釧、帯金具、鉄鍬、家形埴輪破片、鏡片、碧玉製勾玉 |
針塚 |
20m |
円墳 |
5世紀後半 文鏡、鉄斧、鉄鏃 |
甲府市
横根・桜井 |
5〜8m |
積石塚円墳 |
5〜7世紀 200基 金環、土師器、須恵器、ガラス玉 |
浜松市
二本ケ谷 |
3〜9m |
積石塚方墳 竪穴式 |
5世紀後半−6世紀前半 銅鏡、鉄剣、鉄刀、勾玉、須恵器、土師器 |
高崎市
剣崎長瀞西 |
数m角 |
積石塚 |
5世紀後半 鉄の甲冑、脇に馬の埋葬 |
比較して見ると全国の積石塚のうち、基数としては長野県には30%、山梨県には20%
の積石塚があることで注目されるが、それらの積石塚は1ケ所に集中しているので、基数だ
けの比較では本当の規模の比較にならないと考える。逆に言えば1ケ所に集中しているので、
ある部族、集落のみが持つ文化だったと考えられ、更に大室古墳や横根・桜井古墳のような
人頭大の石を積むだけの積石塚は見本があれば誰でも出来る、と思うようになった。立派な
横穴式石室や古墳は設計し、石を加工・運搬したり、整然と積み重ねる技術が必要であり、
その上多くの作業者を動かす指揮者がいないと出来ず、被葬者が生前に準備するか、それ相
当の能力を有する人材が必要である。人頭大の石を積むだけの積石塚では、優れた能力があ
るか尊敬を受ける人をその恩恵を受けた人々が埋葬した墓とは考え難い。そういう観点から
渡来ということについてもう1度見直すと以下の相違点が挙げられる。
@高句麗の王の墓は、方形/円形、段積み等形が整っており、色々な人の知恵・技術や組織が
ないと構築できない。その家系の分派が日本に渡来したのであれば、大きさはともかく形態
は似せるはずであるが、大室や横根・桜井古墳群にはただ積み上げた形状が多く、段積みの
形態は無い。
A能登の項で後述するように渡来人が来た土地にある神社には渡来人が祭られたとすることが
多く、それは農業や馬飼に優れた技術をもたらしたからであるが、大室の積石塚はそれに
相応しい墓とは思えない。多くの古墳では面を仕上げた石を使い、石室も部屋としての形状
を整えているのに比べ、大室には石室というより名前の通りムロ(空洞)となっているもの
が多い。
B長野県の南隣の静岡県は今は東西方向の交通が中心だが、古代は長野や山梨との交流が盛ん
であり、福岡・長野県と並んで馬具副葬古墳が多い。渡来人は能登・北陸〜長野・山梨〜
静岡と伝わってきたように考えるが、能登・北陸に積石塚が無いのは、渡来系でも馬の飼育
技術を持つ集団はそこに定着せず、馬の飼育に適した中部高地に移動したものと考えられる。
次に既出「横根・桜井古墳群の調査報告書」での渡来人か環境自生かの議論について以下引用
すると
大場磐雄、一志茂樹、大塚初重、桐原健の各氏等によって、考古学・文献史学の両面
から積石塚の被葬者渡来人説が盛んに検証されていった。斎藤忠氏が、朝鮮半島とくに
高句麗と結びつけるには地理的にかけ離れすぎていることや、高句麗からの移住者は
平城遷都後渡来しており、積石塚が遷都後には造られていないことなどから環境自生説
をとっている。橋本博文氏は付近に存在する寺本廃寺や甲斐国分寺に百済系の瓦が使用
されていることから、百済系渡来工人の関与があったことを想定し、被葬者渡来人説を
とっている。それに対し、坂本美夫氏は、
@朝鮮半島の積石塚とわが国の積石塚では構築方法が異なること。
A(その名前からも)高句麗人が多く居住したとされている巨麻郡には積石塚がほと
んど確認されていない。
B渡来系神社と積石塚の分布は合致しない。
C積石塚が分布する前面の集落遺跡は積石塚が構築される前からある伝統的集落が多い。
などの理由をあげ環境自生説をとっている。文献からは渡来人が数多く甲斐に移住して
きたことが判明している。また御牧は三牧とも現北巨摩郡に比定されていることで大方
の一致をみている。「甲斐の黒駒」に代表される馬飼いが御牧成立以前にあったことは
推察されるが、積石塚が密集している地域とは位置的に大きな隔たりがあるといわなけ
ればならない。
この坂本美夫氏の説を大室に当てはめてみると同様に上記@および大室付近に渡来系神
社や渡来人集落は認められておらず、初期の積石塚は渡来文化によるものとしても大半は元
からの住民によるものと考える。
また「最近の発掘から見た東日本」(和光大学総合文化研究所HP東西南北2000シンポジウ
ム)で、大塚初重教授は大室古墳群についてこう述べている。
新しい埋葬方法、窯業技術が朝鮮半島から入ってくる、地域によっては土を盛った古
墳から積み石の古墳に変わる。大室古墳群のスタートである合掌型石室に葬られた人た
ちは渡来系の人たちであろう。延喜式に大室の牧の牧監(監督官)は朝鮮半島の出身者
であり、大変な功績があったということで、大和政権から位をもらっている。私は大室
古墳群の積石塚の出現は馬の飼育に関わる集団のものと思っている。二代目、三代目に
なると、在地の人たちとの関係も出てくる。そして、村々の人たちもみんな積石塚を造
っていくことになってきて、全体で500基になったということは充分考えられる。
合掌形については次に詳述するが、「積石塚の出現は馬の飼育に関わる朝鮮半島の出身者
によるもので、二代目、三代目以降は在地の人たちが作った積石塚であろう」という考え方
には同意見である。
(3)合掌形について
他の地域にほとんど無く、長野盆地に多い合掌形石室について、既出「大室古墳群調査
報告書T」の第1、5章において、大塚初重教授は次のように指摘している。
第1章より
大室古墳群の多くの積石塚の中に、遠く高句麗からの影響を受けた百済墓制の合掌形
石室があることであり、大室古墳群中の合掌形石室こそ渡来系集団の人びとにかかわる
墓制である可能性も存在すると推考している。30 基近い合掌形石室だけが集中的に
分布するのではなく、十数基あるいは数十基で構成される単位支群中に、l 、2 基ずつ
しか分布しない。(中略)10 数基から構成される古墳群が合掌形石室墳から築造が
スタートしている。
第5章より
合掌形石室が高句麗系統のものであり、百済の故地・公州付近でみとめられている事実
から、今後の朝鮮半島とくに伽耶地域の墓制の展開が注目されるところである。
これを受けるように大室に近い竹原笹塚古墳の説明には「屋根形天井のある石室古墳は、
百済の公州所在の古墳中に相似の構造を持つものがあるので、朝鮮との関係が考察され」と
書かれており、また大室古墳館には柿木洞古墳の写真が展示してある。そこで公州の柿木古
墳の調査に行ったが、現在は古墳の入り口に柵があって中には入れず、鉄格子の間から撮影
して比較した。
柿木古墳 内部 外観 大室168号墳
実際に比較して見ると、長野の合掌形は石室の上に自然石をもたれ合わせて置いた形態で
石同士の間に隅間があるのに対し、柿木古墳の天井は五角形の奥壁を持ち、精巧に仕上げ加
工された石で石室全体が緻密に組み立てられていることが分かった。後者は設計や加工・築
造技術が必要であり、合掌形と言うより五角形石室または三角屋根形石室と言うべきもので、
長野の合掌形とは全く別物と考える。さらに大室が5世紀に作られたのに対し、公州の古墳
は6世紀で、根本的に半島からの渡来ではない。期待して調査に行ったが、大室の合掌形古
墳について、公州の柿木洞古墳との関係を示唆するのは誤りであり、長野市の合掌形古墳の
説明は再考すべきであろう。
また公州博物館には次の資料があり、更に考察したことを述べる。
公州博物館の分類表 高野まきの棺
韓国百済の石室形態は上記資料から下記のように変遷している。
アーチ形天井 →斜天井(五角形)→平斜天井(台形)→平天井(四角形)
アーチ形天井は中国江南地方がルーツであり、その築造にはアーチ形型枠の段取り等の多大
な手間と築造技術が必要となるので、次第に簡素化されて行ったものと考えるが、その石工
技術や緻密な石室の文化は伝承されていると見る。既出したように扶余陵山里古墳には天井が
台形の古墳があるが、上記変遷過程の一形態といえる。
そして合掌形の発想は、武寧王陵博物館や公州博物館で高野まきの棺を見たとき、雨が多い
稲作地域に住む民族共通に三角屋根が一番落ち着くからではないだろうか、と考えた。馬を
一緒に埋葬するのは遠くスキタイからの騎馬民族の文化であり、馬に関する出土品から大室
古墳の出発点は渡来人であると考えられるが、合掌形古墳については必ずしも渡来人文化とは
いえないと考える。雨や雪に対して防水材料が無く、頑丈な柱構造が出来なかった時代、家を
合掌形屋根にするのは一番安全であり、墓に対しても平らな石を置くより屋根形状に似せる
思いやりがあっても不思議はないと考える。
仲野泰裕氏は「積石塚研究の歴史」(1980年)の中で、大正15年森本六爾氏は屋根型石室
は上州に例の多い家型石棺の模倣であるとし、昭和3年岩崎長思氏は被葬者を合掌形石室に
納めたのは住居に対する親しみのあらわれであるとした、と指摘している。
第三節 地理的相関 (能登・北陸に関して)
(1)能登・北陸の渡来系神社
技術のある人、薬事治療に優れた渡来人については古墳だけでなく、神社に奉られている
事が多い。特に能登・北陸にはこうして出来た渡来系の神社が多いので、古墳だけでなく、
神社との関係を見る必要があると考え、調査に行った。(別紙表2)この中で久麻加夫都阿良
加志比古神社は渡来系との関連が強く、WEB情報を下記に引用する。
能登半島は古代大陸や朝鮮半島の先進文化を直接に吸収し、大陸や半島と同質の文化
圏を形成していた地域であり、渡来系の人々が多く住み着いていた。中でも新羅・加羅
系の文化が栄え、新羅系の秦氏が多かったようである。能登半島の神社の八割が渡来系
の神であるといわれている。新羅神社に関係が深いのは田鶴浜町の白比古神社で古くは
新羅神社といわれていた。中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社も、新羅の天日槍と同
一人物といわれている都怒我阿良斯等神を祭神としている新羅(加羅)系の神社である。
(注18)で補足するように、能登は古来から地理的に半島との交流が深い地域であり、その
痕跡が色濃く残っている。
(2)能登の古墳
能登にも古墳は沢山あるが、調査した中では大室のような積石塚は無い。七尾市の須曽蝦
夷穴古墳は構築されたのは古墳時代末期の7世紀中頃とされ、石室が二つ有る方墳である。
被葬者は判っていないが、石室の天井部が隅三角持送技法によりドーム状になっており、日
本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている。側壁も薄く平らした色の異なる石を
丁寧に積み上げており、渡来の石工技術を思わせる独特の美麗感を持つ古墳である。
須曽蝦夷穴古墳
能登・北陸は朝鮮半島から長野県への経過地となっていると考え調査した結果、このよう
に朝鮮半島との結びつきは極めて濃厚であることは分かったが、長野県の古墳との関係を示
すものは残念ながら探すことが出来なかった。
まとめ
結論
自分の故郷にあること、また残存資料が乏しく学説が確立していないことで「渡来人」に
ロマンを感じ、大室古墳の積石塚をテーマに取り上げて研究したが、確たる証拠は得られな
かったばかりでなく、むしろ大室古墳の特異性である合掌形古墳については、従来百済との
関係があるといわれていることに疑問を持つ結果となった。その代わり他に渡来文化の影響を
強く持つ古墳があること、また大室と似た古墳群があることが分かった。当初目指した結論は
出せなかったが、先生方のご指導のもとこの2年間で文献を読んだり、関係の深い場所に実地
調査に出かけたりしたことで、朝鮮半島と日本(主に中部・北陸地方)の主要古墳の相関は
把握できた。研究しなければロマンのままでいた。
長野県の古墳、特に注力して研究した大室古墳については結論として以下と考える。
@大室古墳は出土品から渡来人が出発点であるといえる。
Aその後の群集墳は全部渡来人が作ったものとはいえない。
B合掌形古墳は長野盆地独自の発生形態と考え、「公州の古墳形態と関係がある」とす
るには疑問がある。
C大室以外に出土品や古墳形態から渡来文化の色濃い古墳がある。
このような知識・結論を持てた充実感はあり、勉強の成果は大きかった。
また技術者として企業勤めのかたわら30年近くかかって少しづつ本を読んだり中国語・
韓国語の勉強をしてきたことが、実際の研究に生かせ、自分の足と目で実地調査できた。専門
家に指導いただきながら、個人ではできなかった出土品への接触や実際の発掘作業への参画等
も含め、今後も更に研究を進めて、より確実な成果を出したい。
今後の課題
機械工学を専攻した者としては当初大きな石の加工、運搬はどのように行われたのか、更に
コンピュータ技術者としてデータ分析等による相関の解析をやる考えもあったが、実地調査で
一番強く惹かれた古墳の持つ雰囲気、周囲景観に興味が移ったが数値化できず、そこまで行け
なかった。また大室古墳群は遺物が少ないことで考古学的にも難しい遺跡であるが、現在では
その経験から遺物の無い遺跡に対し、自然科学の応用による解明の手助けができる方法はない
か、と考える。例えば形の見える残存資料以外に、土や石に残る僅かな成分から埋蔵者や埋蔵
品を推定できる方法を研究したいと考えている。考古学への自然科学の応用としては名大の
加速器質量分析放射性炭素年代測定が有名だが、SPring8でも銅鏡の材料分析により原産地の
特定を行った例もあるので、考古学に寄与できる方法を研究したい。
注
(注1)
岡田正彦 南信州の渡来系文化−古墳時代を中心として− 飯田市
美術博物館研究紀要第16号 飯田市美術博物館(2006)
(注2)小林三郎、大塚初重 信濃大室積石塚古墳群の研究T 東京堂出版
(1993)
(注3)長野市教育委員会 長野大室古墳群分布調査報告書 秀飯舎(1981)
(注4)甲府市教育委員会 横根・桜井積石塚古墳群調査報告書 甲府市教育委員会(1991)
(注5)朴天秀 伽耶と倭 講談社(2007)
(注6)「全方後円」「前房後円」と書いた説明もあるが、発音が同じため誤字である
(注7)樋畑雪湖の記事は大室の郷土歴史研究者から紹介された。
(注8)川崎保 「シナノ」の王墓の考古学 雄山閣 (2006)
(注9)木島平村教育委員会 木島平村埋蔵文化財調査報告書 根塚遺跡
木島平村教育委員会(2002)
(注10)林孝澤、郭東哲 金海良洞里古墳文化 東義大学校博物館 (2000)
(注9)と合わせ木島平村郷土史研究者の宮崎辰昭氏から借用した。
(注11)飯田市教育ネットワーク公式サイトに「馬の生産から勢力拡大(古墳時代)」と
いう資料があり、天武天皇が広めようとした「富本銭」を紹介している。その中で
「富本銭」が飯田市座光寺から出土しました。全国でも40点弱しか見つからず、
東日本では千葉県我孫子市で1点出土している以外は、恒川遺跡周辺に2点出て
いる。都造りに深くかかわった「富本銭」が出土したことで、この地域が、天武
天皇の「第三の都」の候補地であったとも考えられるのです。
とあり郷土愛が高じてかなり筆が走っている、と思ったが、岸俊男氏の「日本の古代
9律令制と都城」の中で「天武天皇が都の候補地探しをしている。信濃まで出かけた」
という記述があり、日本書紀の中に以下の文があった。
29天武天皇十一年(682)三月甲午朔 命小紫三野王。及宮内官大夫等。遣于
新城令見其地形。仍將都矣。
29天武天皇十三年(684)二月庚辰《廿八》遣淨廣肆廣瀬王。小錦中大伴連安
麻呂及判官。録事。陰陽師。工匠等於畿内。令視占應都之地。是日。遣三野王。
小錦下悉女臣筑羅等於信濃令看地形。將都是地歟
訳:三野王を遣す、筑羅等が信濃で地形を見させる。
遷都ではなく、東国に対する出先機関の地方事務所の候補地探しと思われるが、重要
な土地だったということを認識した。
(注12)韓国南部に数多くある古墳の印象は韓国の古墳は芝が綺麗に刈られていて日本の
ように木が生えてない。韓国は現在の墓制もこの土饅頭形状なので、同様に手入れをする
習慣と思われる。日本は現在墓石になっているが、これは土地の少なさによる知恵か。
しかも大半が四角柱で段積みの基壇を有し、むしろ高句麗の伝統を受け継いでいるように
見える。韓国でも「鄭喚麒随想録」育英出版社(2000年)の中で、鄭氏は土葬から火葬にしな
いと大変だ、と以下のように警告している。
10年も過ぎたら、国土の大半は土まんじゅうで覆われるだろう。これを未然に防止する
ため土葬を禁止し、火葬にして骨灰を海や山に散布する。政府も対策を練って法制化に努め
ているが、儒林関係者や家族制度の理念にこり固まった人々の反対運動で、思うに任せない。
ここは政府が思い切った対策を立て、国家千年の大計のため、国民に理解を求めるべきで
ある。
(注13)大室地元の人の聞き取り調査
大室古墳は出土品に乏しく調査する手立てがないため、地元の人の話を聞きたいと
考え、高井大室神社の寄進名簿から郷土史を研究している人経由で、かつて大室古墳
発掘の際に立ち会っている松代郷土史講座の講師である北村保氏にお会いし、渡来人の
痕跡がないかお聞きしたが、「明確な証拠はない」という返事だった。また郷土史を研究
している人の話では
・昭和2年に亡くなった校長先生が古墳の会を作っていた。息子の代に公民館を新築して
出土品を集めたが、後で区に売る話が出たときには、何も残っていなかった。村史、
字名台帳も全て無くなっていた。
・ここは上杉謙信の領土だったが、武田信玄が攻めてきたときに、住民は上杉家と一緒に
会津に逃げた。永福寺住職の話では、東北から斉藤、須田という人が「祖先は大室から
来た」と訪ねてきたことがある。
(注14)『三國史記』の卷第十三高句麗本紀第一の最初の方に以下がある。
朱蒙乃與烏伊摩離陜父等三人爲友 行至淹水【一名盖斯水 在今鴨
東北】欲渡
無梁 恐爲追兵所迫 告水曰 我是天帝子 河伯外孫 今日逃走 追者垂及如何
於是 魚鼈浮出成橋 朱蒙得渡 魚鼈乃解 追騎不得渡 朱蒙行至毛屯谷
訳:朱蒙は橋が無い川まで来て渡ろうとしたが追跡する兵士が迫り、川に「私は
天帝の子だ、今追われて逃げている」と訴えると魚や亀が浮かんで来て橋になり、
朱蒙を渡らせた。魚や亀は解いて追手は渡れず。
これは出雲神話の因幡の白兎が海に並んだサメの上を渡る話のルーツのように思える。
(注15)ヤマト王権との関係がある、と言われる千曲市の森将軍塚や静岡県の前方後円墳
は墳墓の大きさもさることながら、周囲を含めたスケールの大きさ、雰囲気に荘厳さが
ある。数値に表しにくく、明確に実証する論拠に出来ないが、現地調査で感じることは
数値で表すことの出来る大きさより、その古墳と周囲のもつ雰囲気に大きな違いがある
ことに気づく。
前方後円墳は現代まで手入れもされており、代々その価値を認められている、と言
える。それに比べて積石塚群集墳は現代ではほとんど無視された状態に見える。大室の
調査報告書にも「発掘調査している横を○○造園と書いたトラックが石を積んで降りて
行った」とある。
(注16)公州博物館で係の人に柿木古墳の場所を質問したところ、公州博物館が長野に
合掌形古墳の調査に行った報告書があり1冊頂いた。この中にある長野市埋文センタの
風間栄一学芸員の論説によれば、長野の古墳は渡来人との関係を明確に示す証拠はなく、
「渡来人」はまだ見えないとのこと。
・半島系遺物と須恵器分布状況と一致するので、渡来系集団の関与は考慮不要
・積石塚の墳丘以外は他の古墳様式と変わらない
したがって「過剰な渡来系集団の評価は慎むべき。しかしそれは存在しなかった
のではなく、須恵器の窯や馬・馬具の出土から渡来系集団が在地に早く溶け込んで
<見えない渡来人>になったもの」と指摘している。
また長野市立博物館の飯島哲也学芸員の論説もあり「積石塚の被埋葬者イコール
渡来系集団とは言い切れない、考古学的には見えにくい。しかし在地集団に多大な
影響を与えた渡来系集団の存在は否定できない」と指摘している。
(注17)柿木古墳の説明板では、日本語説明が「合葬状」(合葬は合掌と発音が同じため
誤字)であるが、ハングル説明ではシウン(「人」の字と似た発音がSのハングル)
形状と書いてある。
(注18)能登
(WEBからの引用の続き)
『お熊甲祭』記載の社記及び由緒記によれば、祭神は韓国の王族で、阿良加志比古
神は地神、或いは阿羅国(弁辰)の王族ともいわれており、現在の鎮座地方を平定
され、その後守護神として祀ってあるという。そばには熊木川が流れ、高句麗より
の渡来人定住地としての高麗来(こまき)、或いは高麗柵(こまき)の転化であると
するもの。他の一つは三方を山に隈どられた隈地(くまち)・隈城(くまき)から
きたという説である。古代南朝鮮の文化を色濃く残したお祭りとして、国の重要
無形民俗文化財に指定されている。
能登の日置神社・加志波良比古神社に出ている寄進者の姓を見ると、珍しい姓と1つの
漢字の姓が多いことに気づいた。韓国、中国には1つの漢字の姓が多く、これは、と思う
以下の姓について姓名辞典で調べたが、残念ながら特に渡来系と思われる記述はなかった。
(姓のルーツは鎌倉時代以降についての記述が多く、それ以前については辿りにくい)
虎間 鴨谷 向 出村 端根 真鉢 中市 本谷内 大形 山 板蓋
金瀬戸 上根 大本 城物 表山 浦 池筒 奥 三双 干場 至極
小白 角 中居 中小田 宇正 物応 出口 下
更に半島から見た日本について考えると、韓半島特に高句麗から見れば、海に出ると
眼前には日本が横たわっており、海流と冬の北西の季節風によって北陸地方にたどり着く
可能性が高い。能登半島はその中心となって手前に突き出しており、目指す目標になり
易い。
地図を逆にした方が半島から見て日本が横たわっているのが分かる
現代日本では太平洋側が政治、経済の中心であり、日本海側を数10年前は裏日本と
呼んでいたが、古代は半島・大陸からの先進技術文化が渡来する日本海側が日本の表玄関
であった。また長野県は地形的に日本の中心と考えていたが、能登半島の先端禄剛崎には
能登を中心に同心円が描かれて「能登が日本の中心」という図があり、確かにそうでも
あると思った。
(注19)三修社ハングル第7号(1985)の中で、三浦国雄氏が「風水地理説と朝鮮」と
いう題で以下を述べている。
中国医学の最も基本的な気の身体観はそのまま大地のなかにも気が貫流していると
される。この龍穴を探しあて、そこに家・寺院・都市など (陽宅) を営めば衰運が盛
運に変わり、墓 ( 陰宅 )を掘れば死者が安寧をうるのみならず子孫に福がもたらされ
るという。中国ではのちに羅経(羅針盤)を重視する計測派と、山川の配置から龍穴
を帰納する風景派の二大派にわかれ、術数の体系を造り上げていった。朝鮮において
は生気の源は白頭山と信じられていた。朝鮮の諸山はみな白頭山に発源し、その脈は
朝鮮半島を流れ下り智異山に至って尽きる、といわれている 。さらに智異山で終わる
のではなく海中に潜伏して日本諸島となるとする南師古 (16 世紀天文学教授となっ
た風水家 ) の説もある。
日本の若狭地方に「気山」「気比」など気の冠せられた地名が多く、海中にもぐっ
た白頭山の脈と生気は若狭の海岸から日本に上陸したのではないか。さらにその脈は
地脈となって奈良にまで達していたのではないだろうか。東大寺二月堂のお水取りの
聖水は若狭の音無川から献上される。この川の水が地下水となって二月堂の閼伽井に
通じていると信じられているからである。
(注20)一般に日本である遺跡が発見されると、金製品や玉が出土した場合は大きく報道
され、そうでない場合、特に鉄器の場合は大きく報道されない傾向がある。たしかに金銀
宝石は高価なものであり、それを有したことは権力・財力・外交の証になるが、考古学的
にはむしろ鉄器が重要と考える。鉄は錆びてしまうので見栄えが悪いし原型を留めないが、
鉄器こそ当時の軍事、農耕、工芸等社会の状態や技術・文化の渡来を表す重要な遺物と
考える。さらに文字が彫られていると大変重要な情報が得られるが、それは鉄や石の遺物
が多い。
(注21)風景による相関
中国集安市丸都城の風景、地形は大室と良く似ており、王宮跡地に立つと全く大室で
同じ場所に立つのと同じ感覚である。帰国後、再度大室に行ったが、やはり丸都城と同じ
で、両者の相関を強く感じた。既述「シナノの王墓の考古学」で森浩一教授も指摘して
いる。
しかし今まで韓国、能登、北陸と見て回った限りでは、途中に似たような地形や
積石塚がなく、この時代に一足飛びに集安から大室に来たとは考えにくいし、絵に
描いて風景の似た場所を子孫に伝えたとも考えにくい。今後更にもっと相関を示す
証拠を探す必要があるが、他の古墳でも背景や古墳から見える山の形が集安や大室に
似ている場合が多く、風水による古墳の立地条件に深く関係すると考える。(別紙
図5)
中国や朝鮮での風水「四神相応」とは、背後に山、前方に海・湖・川が配置されて
いる背山臨水の地を、左右から背後の山よりも低い丘陵で囲むことで蔵風聚水つまり
風を蓄え水を集めるような地形をいい、大室や集安がまさしくそれに当てはまる。
また木島平の宮崎氏の話では根塚と良洞里の風景が良く似ていて驚いた、とのことで、
彼の執筆した高井地方史研究会発行の「高井」第161号の「根塚物語(二)」には以下
の写真が比較紹介してある。
風景はデータで比較することが出来ないのと、それが同じだからと言ってその土地の
人が移動した確たる証明が出来ないため、学問的には採り上げられず、エピソードで
紹介されるのみであるが、実際にその地に立ってみると誰もが強く惹かれる。何か上手く
証拠立て出来ないものかと考える。
(注22)日本は古墳のそばに博物館があることは少なく、出土品は一般にその行政区の博物
館や東京の国立博物館に他の展示物と一緒に写真と説明が付いて展示されるが、韓国では
大きな古墳は専用の博物館が隣接し、ミニチュアセットで古墳造営の様子を再現してあり、
大変理解し易かった。出土品の精巧な金細工・玉細工の技術と根気の伝統が、現在のミニ
チュアセットにも繋がっているように見えた。
渡辺誠名古屋大学名誉教授のご紹介で、木浦大学校の金建洙教授を訪ね、この話をした
ら「韓国は考古学が遅れていた。それで自分は名古屋大学に7年留学した。最近文化財の
保護に力を入れるようになり、博物館も建てるようになったが、最新の方法を取り入れて
いる。日本は昔からあるので、逆に時代遅れになったかもしれません。」と言われた。また
金教授から考古学について色々教えていただいた。
その他色々な方に教えていただいたり、お世話になった。韓国・中国でも多くの方の協力
で実地見学することが出来た。ここで深く感謝申し上げる。
以上
付録 別紙
(図1)千曲川流域古墳の分布
(図2)千曲川流域古墳の年代
(図3)長野県の主要古墳
(図4)韓国の古墳
(図5)古墳から見える山
(表1)日本の主な積石塚
(表2)調査した古墳(国内)
(表3)年表
(表4)韓国・中国の古墳
(表5)滋賀・兵庫の渡来文化
須恵器や能登の神社の調査の過程で
・新羅王子天日槍と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日槍が
住んだといわれる但馬地方
・久麻加夫都阿良加志比古神社も、新羅の天日槍と同一人物といわれている都怒我
阿良斯等神を祭神としている新羅(加羅)系の神社
という記述を読み、また越前出身で渡来系と言われている継体天皇について調べよう
と京都ゼミの折に周って見たのをまとめたもの。
(表6)(表7)九州、東北の縄文・弥生遺跡調査
2005年に愛知県で開かれた万博の市民ブースで、休日に一般市民が集まって稲作を
するプロジェクトの成果発表を行った。自分はそこで稲作の伝来について発表する担当
になり、九州、東北の遺跡を取材した。古墳時代より前の遺跡だが、今回文献を読んだ
ときに土地勘や周囲環境が分かり、特に古来より朝鮮半島と日本の橋渡しの役割をして
きた壱岐・対馬に行ったことは今回の研究で大変役に立った。またこの経験が放送大学
院への進学の動機にもなったので、参考にまとめたものを添付する。
更に上記と関連して2007年上海外語大に中国語の短期留学した際に杭州浙江省
博物館、紹興、河姆渡遺跡、寧波を見学した写真を拙HP
http://www.gctv.ne.jp/~mmura/ に掲載した。