研究指導III(考古学)<博前> 西江清高教授ゼミ                      2015.05.08

         魏志倭人伝 邪馬台国の場所の考察

                      南山大学院 M2015K003  村越稔

 

1.本論考の目的

キーポイント

・古代中国人の方角の認識

・気候風土について

・原文解釈:中国人、韓国人の読み方

 本論考は考古学的実証ではなく、文献解釈として実際の風土と照らし合わせて記述に合

う場所を推定する。日本の研究者は考古学や背景に詳しく、先に(ひいきの)場所を考え、

それに合わせて読み替えている例が大半である。それに対して中国人は原文を正しく読め

るのと、外国人は関連の予備知識が少なく中立的立場なので、本論考では謝銘仁著1990

年『邪馬台国 中国人はこう読む』(徳間文庫)と韓国語版の김원중1966삼국지

위서 2(三国志魏書2)』(민음사)を筆者が和訳したものをベースに解明を行う。 

 

2.骨子

 『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる「魏志倭人伝」で、国々の位置の記述は方角と

距離で表され、末盧国から不弥国までは北九州ということで一致している。それ以降は記

述とピッタリ合致する場所が見当たらず、読み方によって解釈の違いができ万人の認める

解釈がない。しかし結論を先に言うと

・邪馬台国は九州である。それも気候・風土から南東部

・原田常冶の著作『古代日本正史』では邪馬台国宮崎説を主張する。筆者は彼の「邪馬台

 国の南の21国は奄美21諸島に合致し、その南の狗奴国は沖縄本島で、現在の県境と

 合致する」という説が倭人伝を無理なく、素直に読んでいると考える。

その理由

(1)方角を間違えることはない

 海洋人類学の後藤明教授によれば世界各地で古代人は太陽の夏至、冬至を把握し、それ

を起点に農作業を行った。また同教授著2010年『海から見た日本人』(p185-188講談社)

に沖縄・ポリネシア・ギリシャ・エジプトの星座による航海術、気象予報を紹介している。

 その例として『中国、日本と韓国の天文学の観察の歴史的な記録』(pp2-4)によれば

   1987年に新石器時代の墓が河南省濮陽市で発見された。出土した青竜と白虎のモ

  ザイク模様の仰韶陶器は放射性炭素年代測定でBP5000~6000年。少なくとも商王朝

  から中国の天体観測が始まった。秦と漢代から占星術師局は占星術の予測をする事に

  加えて、年代順に記載して天体観測と暦制作の責任を持っていました。プロの天文学

  者と占星家が昼も夜も勤勉に重要な空の現象を観察して詳細な記録をつけました。

この文献は後藤明教授からお借りした。著者、発行者は以下:

原題:Historical Records of Astronomical Observations of China, Japan and Korea. 

Xu. Zhentao. David W. Pankenier and Yaotiao Jiang (eds.)

2000 East Asian Archaeoastronomy:  Gordon and Breach Science Foundation.

 更にネオマグ梶A(一社)日本船主協会のHPによれば、中国では「天子は南面す」とい

う思想があるため、魏の時代に木片に磁石を組み込んだ「指南魚」を水面に浮かべて南を

示した。これは「人を教え導く」という意味の言葉「指南」の語源でもある、とのこと。

 少し後の時代になるが、高松塚・キトラ古墳、そのルーツとなる高句麗壁画古墳にも星

座と四神の青竜・白虎・朱雀・玄武が書いてあり、方角は正しく認識されていた事は皆さ

んご存知のはずで、それで不彌国まで来れた。四季による太陽の位置の違い程度の誤差は

考慮するにせよ、それ以降をなぜ90度曲げて読むのか。

(2)距離は日数からの推定である 

 中国の文献における尺度で計算し、これではおかしいと読み替える説がある。しかし平

坦で何もない中国平野部と山や渓谷があり森林が生い茂る日本では移動速度が全く異なり、

距離の計算に中国の尺度を当てはめられない。自分は登山をやるので分かりますが、実際

に皆さんが現代の道路ではなく山道(獣道)を歩いてみてください。どの位かかるか。

ある著名な小説家は「この記述はデタラメだ」としている。研究者に混じっていっぱしの

歴史家のふるまいをしているが、自説に合わないとこう言うのはやはり小説家でしかない。

(学問的でない憶測が多く、謝氏の引用例でもことごとく否定されている。)

 考古学的に出土品が多い畿内説が有力だが、15世紀頃の地図を採り上げて中国人が東を

南と間違って認識していた、とする説は中国古代の文化・技術水準を無視している。

この時代の記録は日本に無く、「陳寿の記述が間違っている」という人にお聞きしたい。

地図や距離計の助けを借りずに、自宅から洛陽までの距離、方角を記述できますか?

 自然科学をやってきた自分は尊敬と感謝の念のみで、リスペクト無く読む人は正しい結

論を出せない。ティコ・ブラーエの観測記録を信じ、ケプラーは有名な法則を出した。

(3)倭人伝には気候、風土、風俗に関する記述が多い。その内容から邪馬台国は南に

あり、他国の記述から東にある海に面する。畿内はもちろん、北・中部の九州ではない。

 邪馬台国は「国家」というよりプリミティブなクニである。(吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の

イメージに近いと考えるが場所的に北すぎる)畿内は遺構の形態や箸墓古墳等から、その

後の日本国へのさきがけとなる国家である。畿内説の人は陳寿の書いたシャーマンのレベ

ルにこだわるのではなく、ヤマトが進んだ統治国家であること誇るべき、と考える。

 以下特殊な解釈を除き広く共通に合意されている部分は省略して、解釈が分かれてい

る部分を取り上げ、ヘッダーをつけて解釈の比較検討を行う。

(謝):謝銘仁の解釈、訳注。既出『邪馬台国 中国人はこう読む』 ( ):抜粋頁

(金):既出 作者진수(チンス、陳寿韓国語発音)『삼국지 위서 2』 和訳:村越

   2014年夏、高麗大学図書館所蔵本を複写  韓国語訳김원중(キムウォンジュン)

   出版社()민음사 潟~ンウムサ(ソウル江南区)  

(注):筆者(村越)の考え、コメント

 

3.解釈

今使譯所通三十國

(謝)魏朝の今では使者・訳者が彼我を往来し、直接接触によって誼を結んでいる国の数

  は三十カ国となった。

(金)今でも使者や通訳の往来ある国が30ケ国にもなる

 

從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國

(謝)帯方郡から倭に至るには、半島西海岸沿いに、水上を航海する。突然南へ進んだか

  と思うと、にわかに東の方向へ進むという揺れ動きがある。倭国から見れば、北の方

  位に当たる狗邪韓国(今の金海付近)の岸辺にたどり着く。

(注)謝氏によれば「水行ののち陸行ではない」(p67)

  また至と到の使い分けについて(pp97-104)

   至 = 到

   till  arrive →意味に違いはなく、同字を嫌う ex.余戸・許家,朱・丹・緋・紅

(金)帯方郡から倭に行くには海岸について船で進んで韓国をすぎ、あるときは南に、

  あるときは東の方として倭の北方の海岸にある狗邪韓国へ行かなければならない。

 

伊都國〜有千餘戸丗有王皆統屬女王國

(謝)伊都国〜住居は千戸余りあって、歴代王がいるが、部族連合的な体制なので、みな

  女王の国に隷属している。

(注)ここで謝氏によれば  

  皆統属女王国:皆女王国に統属す。(pp115-122)

  里程:1里=415~450m に相当する。(p70)

  日程:5日毎に休みがあり、占いで行動の吉凶を決め、10日単位で計画を立てるので

    日数=行動日ではない。また麗辞的表現とリズムを重んじ、思弁的哲学「玄学」

    の思想から10日・20日・1月とする。19日とか21日にならない(pp78-88)

(金)伊都国に着く〜1000余戸が住んで,代々王がいるし、全部女王国に属している  

(注)倭人伝の記述は戸数が非常に大きい感じがある。謝氏によれば(pp104-107)

     戸=家で、妻・婦の意味、子供が生まれない場合、第2,3夫人を持つ 

     家=妻の数を表し、子供は含まない。

   したがって数値もあながち誇大とは言えない

 

南至投馬國水行二十日

(注)不彌国は宇美で宝満山の麓であろう。宝満川−筑後川に沿って陸行・水行を混ぜ

て南下し、有明海(海岸線は現在より陸寄り)を船で南下して二十日間、投馬國は熊本

の辺りと考える。

 

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

(謝)南をさして進むと、目的地の邪馬台国にたどり着く。そこは女王国の都が置かれて

 いるところである。魏使達にとっては、幾山河を越え、水陸両路の苦労の長旅であった。 

 この間しばしば沿海を航行するやら、河川を渡るやら、重畳たる山峰・丘陵・渓谷を越

 えるやらの連続であった。日和待ちや休息やら、卜旬やらで、ロスも少なくなく、かな

 り時聞がかかった。水行十日に、陸行一カ月(三十日)の日数である。

(注)更に有明海を10日南下し、八代辺りから1ケ月の陸行となる。

  ここで謝氏によれば(pp88-90)

  「水行十日陸行1月」は「水行を10日、次に陸行を1月」であり、「または」が入る

   なら「或水行十日或陸行1月」になる。但し水行と陸行がはっきり分かれるのでは

   なく、混ざっている。

  更に謝氏によれば「放射式には読めない、珍訳である」(pp90-92)

   放射式なら 東南(奴国)、東行(不彌国)、南行(投馬国)、南行(邪馬台国)

   ではなく東→南の 東行(不彌国)、東南(奴国)、南行〜、南行〜の順になる。

   また魏使は実際に邪馬台国まで行っている。不敬をするはずがない。(pp92-97)

(金)南にまた女王の都邑があるサマイル国までは海で10日、また陸地を1ケ月行っ

  て到達する。  (注)「イル」は「一」であり、「台」なら「サマデ国」となる。

 

自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有〜 

(謝)女王の国より北の方角に所在する国々に関しては、伝聞などによって、戸数やそれ

  ぞれの道のりは、だいたい書き記すことができるが、その他の周辺の国々は、倭国と

  は遠く隔絶しているために、その委細を知ろうにも知るすべがない。いちおう女王領

  属下の、その他のあい接する国名を順次に列挙すると、邪馬台国の次には斯馬国があ

  り、その次に〜

(金)女王国北の方にいる国達は人家がいくつ,どれほど離れていているのか等を大体

  記録するが,その外側にいるあまりの国達は遠く位置し、詳しく知り得ない

  その国達は順に斯馬国があって,それについで〜

(注)国名の間に「次」が入っているので、これらの国は隣り合って順序に並んでいる。

韓の条では「次」という字が入っておらず、これはランダムに分布している。語呂合わ

せであちこち色々な周辺国を挙げている人が多いが、原文は分散しているようには書い

てない。また倭国とは遠く、詳細が分からないのだから九州島内にある国ではなく、大

きな国ではない。奄美諸島は呉には近いが、半島回りでは遠隔地になる。

 

〜次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國

(謝)この奴国が女王の国の境域の果てである。この国境の南には狗奴国という〜

(金)これで女王国の国境は終わる 。その南には狗奴国という国があり〜  

(注)周辺国が分散していれば「ここが境域の果て」とはならず、多くの国が境界を持つ。

なお現在も奄美21諸島は鹿児島県で、沖縄県との県境をなす。

 

自郡至女王國萬二千餘里

(謝)起点の帯方郡から目的地の女王の国までの総里程を、ざっと計算してみると約一万

  二千余里である。

(金)帯方郡から女王国までは 1 2000余里もなる

(注)これは「女王の都する所」を指すのではなく、女王国の勢力範囲を指すと考える。

 

今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽

(謝)今日の倭の海人を見ると、たくみに水中に潜り、魚や蛤を取る時は奇怪な模様を描

  いて、水中の大魚や水禽と対抗し、危害を加えられるのを避ける風習がある。

(金)今倭人の水人達が水に入ると魚,アワビ,貝をよくつかむのに入れ墨を刻むのは、

  大魚や水鳥を避けようという目的もあった。

(注)倭の生業について農耕より文身について詳細に書かれており、海人のイメージが

  強い。邪馬台国は倭の政経の中心であり、海の近くにある。内陸や川辺ではない。

 

計其道里當在會稽東冶之東

(謝)帯方郡から邪馬台国までの距離を比喰的に述べると、それは、まさにかつて会稽郡

 下にあった東冶から、東に所在するところの女王国聞の道程に相当するといえるだろう。

(注)この文の意味を謝氏は(pp135-152)

    会稽郡−女王国までの距離=帯方−女王国までの距離 

   としている。

(金)倭までの旅程を計算すれば倭国は、会稽や東冶東の方に位置する  

 

男子皆露以木緜招頭

(謝)男は髪をただ無造作に両耳のところで束ねて結び、木綿の布を頭に巻くのである。

(金)男達はすべてサント(結婚して一人前になった男が頭上に結ぶ)髷を結い手拭い

  で頭を覆う。  (注)この記述から韓国にも同じ風俗があったことが分かる。

 

所有無與擔耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣

(謝)あるものと、ないものとが海南島の擔耳・朱崖の両地そのものと同じような感じで

  ある。倭地の気候は温暖で、年中疏菜の栽培ができ、冬でも夏でも四季を通じて野菜

  が食べられる。住民は〜みんなはだしである。

(金)そこの生産物は擔耳や朱崖にはない。(注:原文を「所有,無與〜」と読んでいる)

  倭地はとても暖かくて冬なり夏なり活きのいいナムル(山菜)を食べれる。彼らは

  すべて裸足で過ごす

(注)謝氏は邪馬台国はどこという結論は書いてないが「帯方郡は福島と同じ緯度で九州

より遥かに北、魏使一行には倭地の風物を南方的であると感じた」(pp169-177)とある。ま

た日数の多い割りに進んだ距離はないことを繰り返し説明しており、九州内であることを

示唆している。方角についても言及してないが、南を東に読み替えることはしていない。

 名古屋にいると九州は温暖な土地というイメージがありますが、1月に福岡に行った時

名古屋と同じ位寒く、現地の人も冬は寒い、と言っていた。有明海周辺も福岡と大差がな

く、南下して宮崎県に入り、シュロが街路樹に並んでいるのを見たり、温暖で柔らかな空

気を感じて、ここがやはり倭人伝の表現に合っている、と感じた。また耳・朱崖は広東

省の海南島・台湾で、亜熱帯になる。

  後藤明教授からお借りした野口武徳著1984年『沖縄池間島民族誌』、(未来社)によれば

「琉球王宮時代は裸足で、靴を履くようになったのは戦後のこと」とあります。宮崎は沖

縄よりずっと北ですが、北九州では裸足や裸同然・単衣ではいられないと考えます。

 また法隆寺から奈良市中心部に向かう橋のたもとに「凍結注意」の看板が立って

  おり「邪馬台国はここではない」と思いました。

 

以朱丹塗其身體 如中國用粉也食飲用籩豆手食

(謝)丹砂という顔料を体に塗っているのはちょうど中国で化粧に粉を使っているのと

  似ている。飲食する場合は食物によって竹や木の容器を用い、普通手で食べる。

(金)体にはヨンチ(臕脂、結婚式で新婦のホホ紅)やチュサ(朱砂=辰砂)を塗るの

  で,全く中国で顔に粉を塗ることと同じだ 。食べ物は器に込めて手で食べる。  

(注)この記述から韓国にも同じ風俗があったことが分かる。

 

已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

(謝)埋葬が終わると、家族全部が水の中に入ついてミソギを行ない、邪気を体から洗い

   落とす。この習俗はちょうど中国人が一周忌に行なう練沐のようなものである。

(金)お葬式をしたあと全家の中家族が水に入り沐浴する,その姿は中国で行なう練沐

  と類似する  

 (注)ここで一連の記述

   ・皆体に入れ墨をしている。

   ・各行事で心配事があれば、骨を灼いて占いその吉凶を求める。そのやり方は令亀

    の法のようで、焼けたヒビの入り具合を見て運勢を占う。

   ・身分が低い者が高い人と道路で出会ったとき、後ずさりして脇によけ蹲ったり、

    あるいは跪いて、恭順の意を表す。

について既出『沖縄池間島民族誌』の中で倭人伝と関係有る項目を挙げると

・潜水して銛つき猟をする。

・おはるず(御嶽)という女神官のシャーマニズムの制度があり、男の政治と両輪を成す。

・昔は入墨していた。

・役人が来島すると往来で土下座する。

等があり、倭人伝の内容と良く一致する。

 

其人壽考或百年或八九十年

(謝)中には長寿の方もいて百歳、あるいは八、九十歳までも生きている。

(注)謝氏は「百、八十歳はありうる。2倍年歴はありえない」(pp124-134)としている。

(金)人々は長寿して百歳あるいは八十,九十まで生きる。

 

自女王國以北特置一大率檢察諸國(諸國)畏憚之常治伊都國於國中有如刺史

(謝)女王の国から北の諸国に対しては、必要上、特に一名の大率を置いて、検挙・巡察

  の任にあたらせている。管轄内の国々は、みんなこの大率を畏れ憚っている。大率は

  任務上、よく伊都国にとどまっているが、大率が出巡することは、その国その国にと

  って、あたかも刺史の督察を仰ぐような心情である。

(注)ここで謝氏は以下とする。(pp160-168) 

  大率とは女王が置いた行政官であり、「魏が置いた」という説を唱える人がいる(謝氏

  は著名小説家の名を挙げている)が、それなら刺史に例える(如刺史)必要はない。

  仮に魏からの派遣なら「自狗邪韓国以南」となる。「自女王以北」とはならない。

  また狗奴国との戦で帯方郡に救いを求めたが、中国からの派遣なら伊都国の大卒に頼

  めばよく、帯方まで行く必要はない。「一」は一人の意味である。

(金)女王国北の方には特別に大きな機関ひとつをおいて多くの国達を監督するのに,

  すべての国達がこの機関をとても恐れて敬遠する。大きな機関は、つねに伊都国に

  役所をおいて国間で中国の刺史と同じ権威を持つ。 

 

其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰彌呼

(謝)倭国はもともと一般の国々と同じように男性が王となっていて、太平の世が七、八

  十年続いたが、ついに国内に大乱がおこり、互いに武器を持って攻めあうこと何年に

  もわたった。そこで妥協のあげく一人の女性を王に擁立した。これが卑弥呼である。

(注)謝氏によれば「住」であり、「往」ではない。(p209)

(金)倭国は本来男子を王としたが, 70_80年が過ぎた後に倭国に戦乱が起こって何年

 かけて互い攻撃して戦った。それで共同で女子一名を立て王としてピミホと呼んだ

 

女王國東渡海千餘里

(謝)女王の国から、さらに東の海を越えて千余里ほど行くと、そこにも部族国家がある

  という。その国も邪馬台国と同じく倭の人種である。

(金)女王国から東に千余里海を渡っていけばまた国ひとつあり、全部倭と同じ種族だ。

(注)この記述から女王国は東側に海がある場所である。

 

又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參

(謝)また東南方には裸国・黒歯国というのがあって、船で行くと一年ほどかかるという。

(金)また裸国と黒齒国等がその東南側にあり,船に乗って1年間行けば到着できる  

(注)宮崎で地元研究者のお宅に伺ったとき、そこで出土する縄文土器がスミソニアン

博物館の研究者から「南米エクアドルのバルディビア土器と似ている」と指摘されたこ

とを聞きました。大半の研究者は「似て非なるもの」としています。「そんな遠くまで

行くはずが無い」が背景にあるようですが、イースター島のモアイも広く太平洋文化の

流れであり、台風等で流されて一年かかって南米にとどり着くことを一笑に付して、と

はならない気がする。しかもエクアドル海岸では裸国、またコカの葉を石灰と一緒に噛

む風習は黒歯国のイメージと十分に重なる。もちろん水や食料はどうしたのか、南米から

またアジアまでどうやって戻ってきたのか、疑問はある。陳寿の記述に従って検討すべ

く、今年の夏は現地に行って調べてみる。

 

問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

(謝)倭の地とくらべあわせて聞いてみると、この二カ国は遠い海の彼方に孤立してよこ

  たわり、ある国土は海洋によって隔てられ、またある部分は陸続きになっている。

  その両国のまわり、いわば海岸線をめぐりまわると、おおよそ五千里余りある。

(金)色々な情報を総合すれば倭国地は海の中に島にいて,まわりが 5000余里もなる

(注)この段落の主語を謝氏は裸国・黒歯国の二カ国、韓国キム氏は倭国としている。

 

 卑彌呼以死大作冢徑百歩徇葬者奴婢百餘人

(謝)やがて戦乱はおさまったが、女王卑弥呼はすでに他界していた。倭人はその営葬に

  あたって、大きな塚をつくった。さしわたし百歩余り、殉葬された奴の数は百余人

  であった。

(金)ピミホが死んで大きく墓を作ったが直径が 100余歩になった。奴婢 100名以

  上が殉葬された  

(注)謝氏によれば 以=「以って」ではない。以=已(既に)である。(pp134-135)

以死:自然死ではない、という説が多い。岡本健一氏の研究では非業の死による用例が多

いことを引用している本もある。岡本氏の調査した原文を読んでないが、中国語としては

刑死・戦死・事故死等理由があれば当然「以死」となる。しかし特別な理由が書かれてな

く、「以死」だけなら「已死」と同じ、「既に死んだ」の意味になる、ということである。

 

復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與

(謝)張政は檄文を手交し、新しい女王壱与に告げさとした。卑弥呼の宗女である十三歳

  の壱与が、王位を継承することで話がまとまり、倭国内にやっと平和がよみがえった。

(金)このようにしてピミホ家の中の娘のイルヨが王に立てられた。この時イルヨの年

  齢はやっと13歳であったが,国内の人心がすぐ安定した。この時張政などがイルヨ

  をさとす檄文を送った 。(注)「イル」は「」であり、「台」なら「テヨ」となる。

 

4.考察

 以上のように倭人伝は邪馬台国が宮崎と書いてあるように読みましたが、この説を唱え

る人は少ない。それは考古学的な出土品が少ないからであり、近畿地方からは圧倒的に出

土品が多く、次に北部九州が多く、近畿説が一般的に優位に思われている。その典型が箸

墓古墳や三角縁神獣鏡で、これらに関する記事をマスコミが大々的に取り上げ、人々の関

心を引くことが多い。

 日本の考古学は経済成長に伴う国土開発、列島改造による土木工事で急速な発展を遂げ

ました。高速道路、新幹線、工業団地、野球場、バイパス道路、そういう大工事によって

多くの遺跡が出て、それまでの学説を塗り替えました。2014年の1月に西都原、生目古墳

を見に行きましたが、宮崎はまだそうした大工事が少なく「出土品が無い」のではなく、

「発掘されて無い」という感じを受けました。 cf.トロイ、岩宿

 一方で宮崎から北部九州まではかなりの距離があり、計水行1月陸行1月かかるような

土地まで影響を持つのはどういうことか、説明が難しい。また九州中部の山地では戦争が

起きるイメージが湧き難い。現在の尖閣列島問題のように沖縄と近隣の島々間の漁場争い

のように考える。倭国が乱れたのは領土争いではなく、鉄の確保が原因とした説があり、

筆者もそれには賛成なので今後の検討課題である。(1609年、薩摩藩島津氏は3000名の兵

を率いて沖縄本島に上陸し、琉球軍は4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた)

 箸墓古墳も含め、今後の発掘が待たれる。日本の国土の地下5~10m位掘ればかなり歴史

がはっきりします。地球探査レーダーという技術が効果を出し始めていますが、もっと性

能を上げれば考古学が大きく進歩します。自然科学技術の応用をして行きたいと考える。

 地名との対比で九州説に「山門 ヤマト」としている説が多い。しかし「山門」は山の門、

つまり山地に出入りする山道の入口の村、もっと言うと「部落」のイメージで、邪馬台国

のような数万戸の国のイメージではない。邪馬台国にもそういう場所はあったかもしれな

いが、その場合でもやはり国としては「村はずれ」の場所であり、中心部は山門部落から

扇状地として広がった耕地にあり、「山門」では国名にはふさわしくないと考える。

 対馬から北部九州の奴国辺りまでは記述と距離・方角・国名がかなり一致するが、それ

以降は近代の地名に当てはめて読みかえることは難しい。日本人研究者の多くは現地や背

景の情報に詳しいことで、想像をたくましくしすぎるのと、中国語を日本語・日本人の文

化で読んでいる例が多い。そのため原文が非常に少ない字数で表現されているのを、補足

的な字を入れようとする。更に漢詩を読むときの返り点を打つ習慣から助詞を入れたり、

順序を入れ替えて読もうとする。中国語は文章を単純化するにも基本は行為の順序に並べ

て書くルールがある。日本の研究者がもっと中国語を勉強して基礎知識を持って読めば更

に良い研究ができるのに惜しい。(一方で中国に長く滞在して「自分は熟知している」とい

う感覚で曲解に走る方も見受けられる)

 参考文献に挙げた文献もその中身を読むにつれて、著者が中国語を理解せずに自己流に

勝手な解釈をしていると分かると、以降の内容をまじめに読む気がしなくなった。

 特に多いのは同じ語の表現を避けている部分を(あまたある本との違いを強調したいの

か)「意味の違いを自分はこう考えた」と詮索する。以下は口語的か文語的か、程度の差は

あるが全てbutの意味で同じである。日本人も同じ単語を繰り返して使わない。

 ex.しかし、けれども、だが、ところが、でも、とは言え、ではあるが、

 

以上の結果を地図で示すと以下となる。

筆者の読んだルート

(帝国書院中学校社会科地図)

 

原田常次『上代日本正史』

(崎元正教著の本より)

 
 

 

 

5.付記

(1)謝銘仁

 台湾の研究者である。大陸の研究者ではないが、以下のように多くの原文、研究者との

検討を行っている。謝氏によれば古文書の約束事として以下がある。(pp27-34)

@中華書局の標点本を基本とし、正しい句読点を打った。

A美辞麗句を使用しており、全てが論理的な思考でない

B同義異字があって、現代では意味が違う ex.以−已 耶−邪 率−帥 至−到

C尚古主義(古い時代の文物・制度などを尊び、これを模範とする考え方)を尊重。 

D単音節の中国語→多音節の日本語 に変えるときのニュアンスに差が出る

  「魏志・倭人伝」の読み下し文及び巻末の原文は、中華民国の世界書局が19774

 に発行した『新校三国志注』第四版をテキストにした。現今の中国で一般に流布してい

 る『三国志』の版本には、百衲本、武英殿本、金陵活字本、江南書局版本の四種類があ

 り、清以来、多くの学者は宋・元などの版本を根底に『三国志』についての考証・校正

 を行なってきた。『新校三国志注』は、これらの版本ならびに、先哲の研究成果を手本に

 して整理し、句読点・段落を付け加えてできたものである。

  また現代語訳と巻末の注釈は、幅広く文献・資料を推敲し、日本で今まで上梓された

 類書と異義があるところは、中華民国の歴史学者・中国文学者・考古学者らと慎重に討

 論を重ねるなどをして得られた、一つの成果である。

(2)その他の研究者

 参考文献で示すように大陸の研究者の文献も読んだ。彼らは基本的に邪馬台国の場所に

ついて明確な結論を書かない。反対側の考えの日本人を否定することになるのは得策では

ないからであろう。仮に結論を出しても、それは留学先・滞在先の研究者の説に従ってい

るように見える。それも当然であろう。

 最後にお二人の大御所研究者の本から要点を抜粋します。

@大塚初重著2012年『邪馬台国をとらえなおす』講談社現代新書

・記紀に卑弥呼や邪馬台国の名はない。箸墓は記紀の時代ではあるが卑弥呼の墓とは言い

 切れない。神功皇后(4C末)には引用されている。(p9)

・鏡の出土から全国を考える。(pp10-11)

・邪馬台国沖縄説もある。(p47)

・三角縁神獣鏡は楽浪で作られた可能性がある。中国では出土されなく、日本でも型が出

 土しない。(pp159-164)

A森浩一著2010年『倭人伝を読みなおす』ちくま書房

・倭人伝は北部九州について詳細を書いている、それと九州中部の狗奴国(p14)

・邪馬台国の場所や卑弥呼、ではなく倭人伝が何を書こうととしているか、を書きたい。(p15)

・倭人伝の字数は周辺国の記述の中で最多、氏名を10人載せているのも最多、高句麗が

 8人、他は0もある。倭を重視している。(p23)

・倭国=九州北部27国+邪馬台国、投馬国、狗奴国=30 (p43)

・狗奴国:九州中部、熊襲(熊本県の南半分)(p44)

・可:あるべし、推量 →投馬国以降は伝聞である。宮崎妻も候補 (p137)

(注)語呂合わせをするなら筆者は投馬国に島原半島の吾妻を選ぶ。ルート的に素直。